日露戦争 開戦まで その2 (1904年)

日露戦争の続きです。開戦への経緯に興味があります。  

今回も、出口治明教授の「0から学ぶ日本史講義」をベースに、日露戦争について学びます。出口先生に100%近く頼った文章+私の勝手な印象が混ざった文章ですので、大筋は史実ですが、一つの解釈として理解してください。


写真は、有朋の京都別荘である無鄰菴のサイトへのリンクです。1903年(明治36年)4月に元老山縣有朋と伊藤博文、桂太郎首相と小村寿太郎外相の4人が日露戦争について相談した、いわゆる無鄰菴会議の場所です。

京都、いいですね。コロナが収まったら、一度、行ってみたいです。

そうそう、数日前に見たテレビでは、なんと先日書いた九州の八幡製鉄所が紹介されていました。歴史を知ると、旅行の楽しさも増すと思います。

さて。山縣有朋の権勢は凄かったのでしょうね。東京にも山縣有朋の旧家だった場所がホテルになったところがあります。有名な椿山荘ですね!

目白にはよく行くのですが、椿山荘が山縣有朋ゆかりの土地とは、まったく知りませんでした。山縣有朋といえば、私には、戦争好きの帝国主義者のイメージしかありませんが、。。。。。


話を戻します。日露戦争について、さらに詳しくいろいろ調べたいのですが、とりあえず、少しずつ前に進みます。なにせ、現在まで、まだ120年近くあるのですから、果てしなく勉強しているわけにはいきません(笑)

今日のオラの興味は、ロシア側から見た日露戦争です。 日本側については、よく知られているので、書いても面白くないですよね。


日本では、満州と韓国をそれぞれロシアと日本で権益確保しようとして、ロシアと共存したかったのですが、交渉が上手くいかず、開戦論と不戦論がある中で、学者七博士の意見書のように、国民の中でも主戦論が高まっていったのだと思います。

英国との利害が一致し、1902年に日英同盟が結ばれたことも大きく、同盟により、日本がロシアと戦争になっても、清の参戦が英国参戦を必須とするため難しくなったわけです。  


一方、ロシア側はどうだったか。日本と戦争になっても問題にならない、と見ていたのは確かでしょう。そして、大韓帝国がロシアに接近してきていたので、ロシアとすれば韓国を手放す理由はなかったようです。

 しかし、ここで書いておきたいのは、帝政ロシアの事情です。 

1902年4月にロシアは満州からの撤兵条約を結んだのですがなかなか引き上げなかった。

これは、シベリア鉄道の整備を進める時間稼ぎをしていたのではないでしょうか。そして日英同盟があったので、日本とすぐには戦争もしたくない。韓国も手離したくないので、満韓交換には乗れないが、満州支配を確立すべく、清政府に要求を出して圧力を強めることもしています。

この辺りが、のらりくらり的で、最近の北方領土日露交渉の雰囲気に似てませんか?

日本は、じらされて、バカな首相がプーチンに「おお、ウラジミール!いっしょに駆けてゆこうよ」と詩まで詠んだものだからすっかり足元を見られて、いつのまにか一括返還論は消えてしまったのが、つい最近です。(笑)


 さて、すぐ脱線してしまいますが、当時の帝政ロシアでは、国内が揺れています。

ここで着目したいのは、1903年夏、社会民主労働党(共産党の前身)が第2回党大会を開き、レーニンの独裁的な中央集権思想を持つポリシェビキと、穏健的なメンシェビキに分裂するという出来事です。 レーニンは、スイスに亡命中(その後ドイツへ)で、機関誌を通じてロシア国内に支持者を増やしていきました。 革命の足音が聞こえるようですね。 


一方、このころ、満州の東清鉄道が完成し、ロシアは満州に極東総督府を設立。対日戦争に消極的だったウィッテ大蔵大臣(実質的な政府指導者)をロシア皇帝は解任しています。 シベリア鉄道は1904年の9月の開通ですが、それが近々に見えてきました。

ロシアは、対日開戦も視野に入れ始めたのかもしれません。時間稼ぎも終わりころ、という雰囲気を感じるのですが、どうだったのでしょうか。帝政も支離滅裂だったのかもしれません。国内対策も必要。 色々な要素があって、訳が分かりません(笑) 


日本はどうかと言うと、1903年4月に京都の山縣有朋別荘に政府首脳が集まり、ロシア側との戦争は困難との結論を出していました。 巨額の戦費の調達に苦労していたこともあるかと思います。 (米国といろいろ交渉していたので、その辺も触れてみたいのですが、今回は余裕がありません。)  

というわけで、1903年10月以降も、小林外相とローゼン駐日ロシア公使が交渉をしますが、妥協点が決まらない状況でした。

 日本内も国論二分で開戦に踏み切れず、ロシア側も共産勢力の拡大で不安定であり極東政策はのらりくらり的だったわけですが、日本では写真の「無鄰菴」での京都会議から約9か月が立ち、強硬論か制したのでしょう。

 

1904年1月、ついに閣僚会議で小村寿太郎のロシア交渉中断の意見が通り、2月4日の御前会議で開戦が決定されてしまいます。6日に駐露日本公使が国交断絶を通告。


 ところが、ここにドラマが潜んでいるのですね。私は今まで知りませんでしたが、なんと! ロシア皇帝は、2月2日に日本への妥協案を裁可していました!ローゼン駐日公使に届いたのは、2月7日!御前会議から3日遅れてしまったわけです。 

 電話やメールのある現代では想像出来ないタイムラグ!私にもぴんとこない出来事ですから、ましてや携帯電話やスマホ、SNSが当たり前になってから生まれてきた若い人には、想像できないことが沢山あるのではないでしょうか。 


私は、当時の人々の生活、考え方、思想や、人々の間のコミュニケーションに興味があります。その上で史実の意味を考えないといけない。今の時代の感覚での判断は間違ってしまうかもしれません。 

また、話がズレましたが、日露戦争は、始まりました。当時の国際法(どういう形で認められていたのか要調査です)では宣戦布告の規定はなかったので、日本が不意に始めた開戦も、国際的には、特に非難されなかったようです。帝国主義という利己的な力のぶつかり合い。国際法を守るという意識は、当時の人々には無かったのではないでしょうか。ほんの120年前なのに、人類は、まだまだ野蛮だったのです。。。。


戦況の経緯は、特に振り返りません。旅順を巡る戦闘や、バルチック艦隊との日本海戦などをここで繰り返す必要はないでしょう。  フィクションですがだいたいわかるでしょうから、司馬遼太郎でも読んでください。私は、はるか昔にさんざん読んで、忘れました(笑)


ロシア戦争が集結するのは、1905年10月14日です。実は私の誕生日に当たっていたことを、これも今回、歴史をおさらいしていて、生まれて初めて知りました(笑)  歴史の勉強は、面白いですね。


これで、1904年は、いちおう終わります。

1904年は2回に分けましたが、次回は、1905年を勉強したいと思います。



森から世界を見る

著者:森のきょろん 企業研究所に従事したあと、現在は、数理工学を専門とする知財コンサルティング職務を行なっています。ふだんは海の近くに住み、ときどき森を彷徨して思考に没入します。

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